単行デーゼルカーに乗り
   松浦街道を行く
(その1)

                    2002.5.5.   ・・・画像にマウスを置くと別の画像を表示します。



左 石(ひだりいし)



               

左石駅本屋
MR左石駅本屋「西九州の鉄道」様提供
 今朝は旧国鉄柚木線跡を歩き、心地よい汗をかいた。
で、今、その起点であった左石駅(現松浦鉄道)に差し掛かったところである。
昨日と打って変わり初夏の日差しが降り注ぎ、快い汗をかいた。
これから、MR・松浦鉄道に乗り、たびら平戸口まで行き平戸に渡り、その後松浦まで足を延ばそうかと考えている。
駅前に差し掛かると、昨夜お世話になった柚木出身のG君夫妻がご自慢のワンボックスカーの横に立っていた。
 「貴方が慣れない事をやろうとするから、気になって追いかけてきた。」とのごあいさつ。
「慣れないことって何や」と尋ねると、彼は「日頃、大して歩いていない運動不足の君が歩くというからだよ。大丈夫かい。息切れしていないか?」とのたまった。それは一理ある。しかし、負けてはいられない。「運動不足だからその解消のためだ。文句あるか」とやり返す。ボケとツッコミは会話の常道。大阪では、それを、間髪入れずに言わないと「ちゃんと突っ込まんかい」とお叱りをうける。

駅名表示板とG君こんなやり取りをしている内に、列車の時刻になった。
ホームへでて、駅構内にカメラを向けていると、「ここを撮らんかい」との声が聞こえた。振り返るとホームにある駅名表示板の横にたってポーズをとっている。
「あっ、そや、そや」と言って、シャッターを切った。左石駅から乗ったという「重大な証拠写真」を忘れることころであった。あぶない。あぶない。風景写真を撮ることを最近覚えたばかりで我ながら機転が利かない。
ここはこの友の「気遣い」に感謝・感謝と言ったところ・・・。

程なく、プーンと言う音をたて単行ディーゼルが佐世保方面から入線してきた。
G君とは数日後に福岡で再会することを約し、とりあえず乗り込む。
「たびら平戸口」まで36.2キロを1時間22分かけてゆっくり走る旅のスタートである。




松浦鉄道



左石で交換したMR100型ディーゼルカー
 ゴールデンウィークの最中にしては、車内は「程よく混んでいる」(我ながらチュートハンパな言い方?)程度で、なんとか前の方の席を確保することはできた。
この車両は、MR100型と呼ばれ、もっともポピュラーな車両である。クロスシートが中央部にあるのが嬉しい。ロングシートばかりの車両では旅の趣も何もあったものではないのだ。
 運転手の横から前方を眺めると、佐世保行きの下り列車が停車している。

 往年の左石駅は松浦線、柚木線の接続駅だったこともあり、駅構内は意外と広いが、構内の線路は現在使用中のものを除き殆どが撤去され、行き合いの間には雑草が生えた旧線路跡が広がっている。
「使えるものはそのまま使い、無理して新調しない」
これは、松浦鉄道の各駅共通の光景のようにも思える。
なにしろ、廃線される予定の鉄道を地元自治体や企業が金を出し合って第3セクターとしてなんとか存続させたのだから、列車の運行に必要最小限の投資はしたとしても、余分な予算が有るはずが無い。

 国鉄時代、「赤字ローカル線」と言われ「お荷物」扱いだった松浦鉄道は、次々と新駅を作ってきた。その数は開業時32だったのが、年を経る度に増え続け、現在路線内93キロの中で57の駅が営業をしている。駅間平均距離1.6キロ、自転車で10分足らずで行き来できる間隔である。中には佐世保中央〜中佐世保間のように200mしかない区間もある。
また、運行本数も大幅に増やし、佐世保駅発着の本数は40を超える。

 JRを見てみよう。佐世保線内がこの間、1つの駅の増設もなく、運行本数も31本(普通15本、特急16本)。長崎本線・諫早〜肥前山口間ではもっとひどく、運行本数37本(普通11本、特急26本)。両方とも普通列車に限って言えば、民営化前の国鉄松浦線のダイヤとさほど変わらない。
いかにMRが地域に密着した路線を目指しているのかがよくわかる。

SL時代の構内風景
SL牽引の客車列車(「客車空気調和装置資料室」様提供) 
 また、この間、自転車の持ち込みサービス、ビール列車、買い物列車、ハイキング列車等各種のイベント企画を行う等、涙ぐましい経営努力の結果、赤字に悩む全国の第3セクター鉄道の中で数少ない黒字企業と言われている。

 国鉄がJRになり、全国で多くの地方路線が「赤字」を理由にドンドン廃線に追い込まれてきたことを思う時に、「本当に採算を取ることのできる努力をしたのか」と思いたくなる。
「鉄道は乗客が減るから採算がとれない」のではなく、「住民が利用するような努力をすれば大半の鉄道は維持できるはず・・・」。全国の鉄道路線を乗り歩いた方の弁であるが、そのとおりだと思う。

 JRが新幹線や特急列車主体のダイヤを組み、地域住民の足となる普通列車を切り捨てている現状をみると、「お荷物」として切り捨てられる運命から這い上がってきたこの鉄道の爪の垢でも飲ませたい位である。


佐世保鉄道



愛宕山
本山駅より愛宕山を望む
現在はこの先を山に沿って左に迂回しているが、
佐世保鉄道の軽便線は右に迂回し、
相浦を経由せずに北の佐々方面へ至った。


昭和17年(改軌前)の松浦線の時刻表

実盛谷の駅で相浦方面と佐々方面に分岐しているのが分かる。


 左石をでると列車は南北の山に挟まれたわずかな隘路を一路西を目指す。炭鉱があった時代は石炭を満載した貨車が行き来したこの路線を今走っている。
線路の南側には国道が走り、並行して相浦川が流れる。
川の向こう側には、山の斜面が迫って見える。

 思えば、佐世保というところは海から陸にあがるとすぐ東西南北から山が迫り、その隙間のわずかな平地と山の斜面にへばりつく様にできた街である。その中ほどにある中里を過ぎるあたりから進行方向を眺めると富士山のミニチュア版の形をした愛宕山(標高259メートル)が真正面に見えてくる。
鉄路はこの付近から、左にカーブし、この山の南を時計回りにグルッと回り、相浦を経由して、佐々・平戸口方面を目指す。

 佐世保鉄道の時代、軌間762ミリの軽便線は、愛宕山の裾にあった「実盛谷(さねもりだに)」という駅より、相浦方面と佐々、平戸口方面に分岐する路線であった。
 戦争末期の昭和18年から20年にかけて軌道間が1067ミリへ改軌されたとき、この実盛谷ルートは廃止され、現在のように愛宕山の南を迂回する路線となったのである。
 なぜこのように「遠回りする」路線変更が行われたか、その事情は定かではないが、相浦がそれまでのいわば「盲腸線の終着駅」から「松浦線の途中駅」となったのは事実である。

 その当時の機関士の方よりこんな話を聞いたことがある。戦時中の話である。中里の駅で、「機関車の窓に墨を塗れ」と上官よりの命をうけたことがあるとのこと。その理由は、米軍の爆撃から鉄道を守るということだったらしい。灯火管制である。もちろん前方をみる窓は別であろうが、「○○の戦果を上げた」という「勝った、勝った」の「大本営発表」しかなかった当時、この先達は「勝っているのなら本土へ敵が攻めてくるなどないはず。こりゃ、この戦争には勝てない」と思われたそうである。
その当時の人々は「他人の前では口にはださない」ものの、この戦争の帰趨について、身近なところで感じていたのであろう。
果たして、昭和20年6月28日、大挙して飛来した米軍機の空襲により佐世保市街は一夜にして灰燼と帰す。


相 浦(あいのうら)




相浦駅の入り口
相浦港から駅を望む「西九州の鉄道」様提供

 列車は左にカーブし国道204号線のガードをくぐり相浦川を渡る。
 上相浦、大学の駅を過ぎ、トンネルを潜ると、港の景色が目に飛び込んでくる。先ほどより何度もその名前が登場した相浦である。

 この街は明治から昭和30年代まで、北松炭田の積出港として賑わった。その当時、港にはこの駅に運び込まれた石炭の山ができ、もっこを担いだ沖仲仕(おきなかし)が港内を行き来した。県外に搬出された黒ダイヤの量は最盛期には年間60万トンにも達し、飲み屋街や料亭は陸に上がった船乗りや石炭業者の接待客で賑わったと言う。

 「その当時、廓の女の人たちの走り使いをしていたら、そこのお姉さんたちによく可愛がられたものです。何しろ、タダで飲ませ食わせしてくれる。遊ばせてくれる。その上小遣いもくれるんですからね。不自由はしなかったですね。」という年配の男性の話を聞いたことがある。もっとも、これは東京の青梅の話であるが、相浦と同じような道を歩んできた街の逸話としてふと思い出した。

 昭和47年、柚木炭鉱の閉山とともにその繁栄の歴史に終止符が打たれた。その後、地元では砂利・石材運搬船の基地にその活路を求めたが、この港が往時の賑わいをとりもどすことは無かった。
最近では、佐世保港より移った魚市場や水産加工団地が、この街の経済復興の担い手ととして期待されていると聞く。

線路跡に生い茂った雑草
1975年当時の駅構内
(「客車空気調和装置資料室」様提供)
 海に面した高台にある駅のホームに降り立つ。目の前に見える撤去された幾スジもの線路、広い構内にポツンと残り、単行のディーゼルが停車するには長すぎるこのくすんだホームはこの街の盛衰の名残を色濃く残しているように思える。

 私は、佐世保の郊外で比較的開発が進んでいる佐世保線沿線の早岐(はいき)とこの街をどうしても比較してしまう。
特急列車が行き交う早岐の周辺には、大規模な団地が出来、高速道路が走り、訪れる毎に変貌をとげているのに対し、私の子供の頃からの街並みが残るこの街には何某かの郷愁に似たものを感じているのだろうか。

 下り列車が右手のホームに着くとまもなく私の乗った単行車両はディーゼル音を響かせてホームを離れた。
駅をでてすぐ、昔の木造の商店が並ぶメインストリートを跨ぐ鉄橋をわたると、街の姿は視界から消えた。
                        (つづく)



国鉄松浦線から第3セクター松浦鉄道へ



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最終更新 2014.8.19



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