JR観光バス
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旅先の朝は早起きになる。時計を見ると午前6時過ぎ。南国の神は青空を与えて下さったようだ。
Nさんはもう起きて煙草を吸っていた。一番の早起きである。Tくんはまだ夢の中を彷徨っている様子。
桜島は七色の色彩を持っていると評論を読んだことがある。見る時間、場所、気象によって様々であろうが、早朝のそれを確かめてみたくなり、窓からみえる景色を覗いてみた。
そこには、朝日をバックに山の稜線がくっきりと浮かび上がり、明と暗を際だたせた姿があった。 人間と同様、正に今、眠りから覚めようと言う桜島である。
今日の足には観光バスを利用することになった。
気ままに、観たい処を好きな時間みるという自由度は無いが、色んな処を見て回ることのできる便利さには勝てない。朝食の後、荷物をまとめて宿を発つ。
西鹿児島駅前からは、市内観光、指宿方面、大隅半島等各方面にバスがでているが、市内と桜島を見て回るということで、JR観光バス(市内・桜島Aコース)を選んだ。これだと、8時50分に出発、3時には帰着し、宿舎に入ることができる。夕方から夜にかけての時間の自由度は確保される。
JR観光バスのコース
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西鹿児島駅前
(8:50発) |
2 |
大久保像、西郷像、鶴丸城跡 |
B |
城山、西郷洞窟 |
| C |
南州墓地 |
D |
磯庭園、尚古集成館 |
E |
鹿児島港
(桜島桟橋) |
| F |
桜島港 |
8 |
黒神埋没鳥居 |
9 |
溶岩道路 |
| I |
有村展望所 |
11 |
古里温泉、林芙美子文学碑 |
K |
湯平展望台 |
| L |
溶岩焼窯元 |
M |
桜島港 |
N |
鹿児島港
(桜島桟橋) |
| O |
天文館(下車可能) |
P |
西鹿児島駅前
(15:00着) |
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注、数字は経路順、丸数字は下車地。(料金:4000円)
駅前にはそのバスが我々を待っていた。車体全面が真っ赤に塗装された中に「SAKURAJIMA RED LINER SIGHT SEEING」と言う白い文字が車体に浮かび上がる。赤はJR九州のシンボルカラーと聞いた。そう言えば博多〜佐世保間で運転されている485系の電車特急にも同じ塗装が施されている。その列車の名は「みどり」号。
観光バスの興味のひとつはガイドさんである。「どんな美人かな」との期待はつきまとう。女性の歳を云々するのは失礼だが、30歳前半くらいだろうか、目がきりりと引き締まった良かおごじょが迎えてくれた。
指定された席に着き、ほどなくバスは動き出し、甲突川を渡った。
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城山、南州墓地

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昨日、散策をした西郷像、鶴丸城跡を通り、我々は城山の展望台にたった。海抜107メートルのこの地からは鹿児島市街、錦江湾、そして桜島を一望のもとに見渡すことができる。古来より薩摩人はこの景観をみて育った。
「この風景を見ると天下国家を考える。北国の雪の風景は人間の命の尊さを感じる」とはあるジャーナリストの弁である。
南国の気候は人間を開放的にし、噴煙を望むこの風景は上昇気流の発想を生み出すのではないかと私も感じる。
城山に登る坂の途中に公園があり、柵の奥に二つの洞穴があった。「西郷洞窟」と呼ばれる。西南戦争で薩摩軍が城山に立てこもった最後の5日間、本営を置いた処である。明治10年9月24日午前4時、薩軍は政府軍に対する最後の突撃を敢行した。
「晋どん、ここらでよか」。銃弾が飛び交う中、弾を受けた西郷は別府晋介の介錯により、49年の生涯を遂げた。その地は坂を下りきったところにあり、「西郷終焉の地」として保存されている。

その薩軍の戦死者が葬られた南州墓地は、城山と同じく眼の前に錦江湾と桜島を望む高台にあった。
広い敷地には数限りないほどの墓石が整然と並んでいる。その正面には西郷を中心に桐野利秋、村田新八、別府晋介、大山綱良ら幹部の墓がその脇を固めている。壮観な眺めである。薩摩だけでなく九州各地から薩軍に加わった士族の墓もあった。
「命もいらず名もいらず」という説明パネルの大見出しが眼に付いた。天を敬い人間を愛したこの英雄は彼を慕って運命を共にした多くの薩軍兵士とともに、桜島が見えるこの丘で眠っている。
この敷地内には彼の資料を展示した西郷南州顕彰館があり、見学したいところだが時間が無い、次の機会に譲ることにした。
バスは錦江湾を右にみて国道10号線を北に走る。道路は比較的混んでいるが、ノロノロ運転とまではいかない。
ガイドさんが小原節の替え歌を唄ってくれた。
「でこん畑で、ゲンネこつしやんな。ひとがみちょもんで小原ハァー、われもんそう。ハ、ヨイヨイヨイヤサ・・・」
唄が終わった後、「みなさん、どういう意味かわかりますか?」とガイドさんが聞いた。が、誰も首をかしげるばかりである。私に判るのは「でこん」が大根を意味することくらいだ。佐賀、福岡、熊本くらいまでの言葉なら大体わかるが、薩摩言葉は慣れないと判らない。Nさんはと言えば笑みを浮かべながら、一人うなずいている様子。何となく、歌詞の意味が伝わったのであろう。
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磯庭園・尚古修成館

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島津家19代藩主光久が造ったと言われる磯の御殿は市街地を離れ、海と山が左右から迫る場所にある。現在は磯庭園として一般に開放されており、仙厳園または磯の島津邸とも呼ばれる。その前を国道とJR日豊本線の線路が走る。その先は海である。
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広い芝生の中では、野立てが行われていた。和服姿の薩摩おごじょが行き交っている。Nさんと言えば、もっぱらその方にカメラを向け撮影中。こまめ・・・。 |
磯庭園に隣接して尚古集成館がある。コースには入っていないが、別料金を払い見学した。庭園美も良いが、私のお目当てはむしろこちらの方。
江戸期随一の開明君主と言われる28代藩主・島津斉彬が造った日本最初の本格的洋式工場群・集成館はこの一帯にあった。
ここでは、国産初の蒸気船や、(大砲製造の為の)反射炉、溶鉱炉、火薬から、ガラス細工(薩摩切り子)、農機具、氷砂糖、白粉に至るまで、多彩な製品が生み出されていた。列強と対峙するには「国を富ます・強い軍事力を持つ」ことが急務であるとの信念を持つこの君主は、産業革命の薩摩版というべき壮大な試みを行っていたのである。そして、その志は明治政府の富国強兵政策となって受け継がれる。
当時、中国の王朝・清はアヘン戦争に敗れた結果、領土の割譲を余儀なくされ、イギリス、フランス等の列強に蝕まれてようとしていた。日本では浦賀にペリーが来航し、大砲を構えて和親と通商を幕府に求めた。
斉彬は「急がなければ日本は潰される」と言う危機感を持った。その思いを実現しようとする途上に西郷がいた。郡方書役助という下役人に過ぎなかった彼の能力を見抜き、自ら英才教育を施し、天下の大舞台へと引きあげたのである。この経験が無ければ、彼は辺境の地の一介の武士として生涯を終えていたかもしれない。
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安政4年、徹底した弾圧政治を行った大老・井伊直弼の幕政に抗し、薩摩藩は禁裏守護を名目に京への出兵の準備を進めていた。その最中、斉彬は急逝する。
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| 島津斉彬肖像(尚古集成館蔵) |
斉彬の異母弟、島津久光を藩主に擁立しようとする勢力が「毒を盛った」と信じる西郷は、藩主の実父として藩の実権を握った久光と終生そりが合わなかった。彼にとって斉彬は、人生の恩人であり、師であり、何よりも終生仕えるべき唯一の君主だったのである。
館内には島津家代々の資料や、集成館で使った道具や資料が展示されている。薩英戦争で使われた大砲、斉彬が自ら撮影した銀盤写真、斉彬愛用の地球儀。興味は尽きない。その中に大きな斉彬の肖像画が展示されている。まるで時空を越えてこの人物に拝謁したような気分になった。
我々はバスの集合時刻に咳かされるように屋外へ出た。薩摩藩が招いた英国人技師たちが暮らした異人館はこの近くにあるが、時間がない。次にこの地を訪れる機会には、観光バスなどには乗らず、ゆっくり見ることにしようと思った。 |
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(つづく)
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