![]() E 西鹿児島直通・特急寝台なは(その6) |
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窓をみると列車がホームをでるところだ。窓に顔を近づけキョロキョロすると川内という表示が見えた。 寝ぼけ眼で時計を見ると9時40分になるところ。 出水をでたのは覚えているから、4〜50分は寝ていたことになる。 「おやっさん、よう寝てたな。いびきを掻いてたで・・・」とNakaさんが笑って言った。 「昨日遅かったし、今朝は早よう眼が覚めたしなぁ。」と苦笑しながら答える。 見ると、彼の内職は終わったらしい、単行本を読んでいる。 「カゴマまでもう少しやなぁ」私。 |
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「この本読んでたら、おもろい唄あったで。こんなん、知ってる?」とNakaさん。 で、軽い調子で唄を謡いだした
節は即興でつけたとのこと。 やはり、この先生は唄というキーワードに敏感に反応する。 「あぁ、何か聞いたことあるわ。加藤言うたら清正のことやろ」 「たしか、『清正が薩摩に攻めてきたら、メタメタにやっつけたる』・・・こんな意味やなかった?」私。 「そやそや、よう知ってるやん」 Nakaさん 先ほどの歴史談義の続きが始まった。 この手の話は私も好きながら、彼も好きである。 以下は彼の言葉の受け売り・・・
一進一退の戦況の中で西軍の小早川秀秋の裏切りにより、戦局は東軍の圧倒的優位に傾いた。西軍のほとんどが壊走し、東軍ばかりの戦場に取り残された薩摩軍が、家康本陣めがけて突進するところから話しが始まる。 これは玉砕のための突撃ではなく、退却のためのそれであった。普通、逃げるのであれば、後ろへ後退するはずのところ、薩摩軍がとったこの意表をつく行動は、総大将・島津義弘を生きて薩摩に帰す、その一点に絞った大胆な作戦だったのである。 それは戦場に残っている6〜7万もの敵を相手の戦であった。 薩摩軍は1500名もの兵が次々に討ち死にし、生き残こったのは80名足らずと言う壮絶な戦いを繰り広げ、その撤退作戦を成功させた。後世「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれる。 薩摩に戻った義弘は国境を閉ざし臨戦体制を取りながら、家康に本領安堵を求める微小外交を展開する。その結果は、薩摩藩が260年後、長州とともに倒幕の原動力として働いたという歴史が語るところである。 この唄は、肥薩国境に配された新納(にいろ)武蔵守忠元の作と言われ、家康の命を受け攻めてくるであろう熊本の加藤清正軍に対し、薩摩軍の士気を高揚させるために唄われたと言う。 これは、直接の相手として清正を名指ししているものの、実のところ、その矛先は中央に成立したばかりの徳川政権に対して向けられていたとも言えるだろう。 西軍に加わった大半の大名を、即刻、取り潰し、領土を没収した家康だったが、関ヶ原での島津氏の武勇が忘れられなかった。なにしろ少数と多寡をくくっていた相手に自陣近くまで攻め込まれ、度肝を抜かれてしまったのだから。 その大名がなおかつ戦意が盛んであることを知り、その始末のつけ方について迷いに迷ったはずである。 そして、足掛け3年にわたる逡巡の末に出した結論は「君子危うきに近寄らず」あるいは「さわらぬカミにタタリなし」と言うもの。 彼の遺言の中に、「我の遺体に甲冑を着せ、西に向いて納めよ」と言うのがあったと聞く。これは己が死んだ後「島津が造反するのではないか」と言う恐れを抱いていたことのあらわれであろう。 権謀術数の限りを尽くして天下を手に入れた家康も、いざ、その権力を守ろうとしたときには、小心な一隗の老人に過ぎなかった。独裁者の末路は皆同じようなものである。 串木野を過ぎ、私たちがたどってきた薩摩街道の旅も第4コーナーに差し掛かってきた。 |
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到着したホームから駅舎を眺めていると、そのホームの手前にはあるはずの線路が無く舗装されており、その上に2台3台と自動車が停まっている。 ??? どうやら、今使われているのは到着した島ホーム一面(2線)のみで跨線橋が駅舎の方へ延びて、改札は向うでするようである。 「おもしろい駅やなぁ・・・」とNakaさんと言っていると、補助席に座っていた昨日の上段のお客さん(とりあえずKさんと呼ぶ)が、「あれは、南薩線の跡ですよ」と教えてくれた。この方は地元の人なのだろう。 現在のJR指宿枕崎線は錦江湾に沿って薩摩半島の東海岸を走り、南端の枕崎まで至っているが、この鉄路(枕崎線)は半島の西海岸を通り、加世田、枕崎まで列車の運行がされていたと言う。 前者の開通が昭和24年に対し、この南薩線は昭和6年だから遥かに先輩と言える。 昭和58年6月、南薩地方を襲った集中豪雨は、この鉄道をズタズタに寸断した。「復旧するには金がかかる。赤字続きのこの鉄道にこれ以上の投資はできない」と言うことで翌年廃線となったそうだ。昨年廃線跡を歩いた佐世保の柚木線も大雨が命取りになった。 |
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先ほどの山野線、宮之城線(川内〜薩摩大口)、大隈線(国分〜志布志)、志布志線(西都城〜志布志)・・・「1日の乗降客4000人未満は廃止」と言う杓子定規なモノサシをあてられ廃線に追い込まれたこの地方の鉄道である。 廃線すれば1キロあたり3000万円の転換交付金が運輸省から地元に支払われたそうだが、その代償として失ったものは線路だけに留まらなかったのではないだろうか。 「お客さんは、妙円寺(みょうえんじ)参りというのをご存知ですか?」Kさんが言った。この場合の「お客さん」とは我々約2名のことである。 「あぁ、島津の殿様のお墓参りをするって言う行事のことですね。この近くにお寺でもあるんですか?」 先ほど、新たな「薩摩学」を仕入れたばかりのNakaさんが答えている。 「この駅の、北の方、列車の左手になるんですけどね。島津義弘公を祭った神社があるんですよ。徳重(とくしげ)神社と言うのですが・・・。 10月の下旬、あぁそうそう、2〜3日前に行われたと思うのですが、鹿児島市内から行列を組んで山越えをするのですよ。」 昨日の宴会では、もっぱらNakaさん、Tさん、私の話の聞き役に回っていた御仁だが、話し始めると雄弁なところがあるようだ。もっとも、昨日のことは忘れてしまったことが大半だから、断片的な記憶の中にそんな印象が残っているに過ぎない。いずれにしても、話好きであることは間違いないようだ。 この行事は関ヶ原の撤退行における主君・島津義弘の苦難を吾がものとし、心身鍛錬を怠らず、質実剛健な士風を作る為に始められたものだそうで、旧暦で言えば9月14日の夜、鎧兜(よろいかぶと)に身を固めて伊集院・妙円寺まで20キロの山道を、夜通しかけて往復徒歩で歩き通し、参拝したという。そう言えば、何かの雑誌で写真をみたことがある。 明治のはじめ廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により徳重神社と名前が改められたこの妙円寺だが、地元の人は「メエンジ(サア)」と呼ぶそうだ。「オマンサァ(お前さん)」と同じ響きに聞こえる。大阪言葉と同じように薩摩言葉の言い回しはなんとなく愛嬌があるが、歴史上の薩摩隼人には凄みがある。 江戸期、幕府の密偵も寄せ付けなかったと言われる薩摩藩は、260年もの間、外敵に対し臨戦体制を解くことはなかった。 出水や知覧の武家屋敷に見られるように、藩内113ヶ所の拠点に武士団を配置し二重三重の防衛ラインを敷いた。外城(とじょう)制度と呼ばれる。そして、闘う武士を育成した郷中(ごじゅう)教育。この妙円寺参りもその一環として行われてきたのである。 その一方で、徳川将軍の親衛隊というべき旗本八万旗の侍たちは「太平の世」に慣れきってしまい、文武両道の精神を忘れてしまった。その結果文字を書けない者も少なくなく、幕府の存亡をかけた肝心なときには、出陣を回避するために幼少の子に家督を譲るものも続出したと言う。最後の将軍・徳川慶喜曰く「徳川はこのものたちに永年無駄飯を食わせてきた。そして、今、このものたちに幕府は食いつぶされようとしている」。 「武士より武士らしくありたい」と農民あがりの新撰組が、本来なら犯罪人として処罰される「人斬り稼業」で公儀に認められ頼りにされた背景にはこのような事情がある。 妙円寺参りは、明治維新以降も続けられた。最近では、伊集院町や商工会、観光協会等が主体となったいろんなイベントも開かれ、益々盛んになっているそうである。 鹿児島到着を前にして、地元のKさんが加わり、私たちの話しは尽きることが無い。 |
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右手の車窓には、建物の影から桜島が見え隠れし、 一晩かけた夜汽車の旅も終わりを迎えようとしている。 「・・・まもなく、西鹿児島、終点西鹿児島です。 お手回り品、お忘れ物がございませんよう、ご用意ください。 お出口は右側、6番乗り場に着きます。お出口は右側です。」 「乗り換えのご案内を致します。 日豊線、鹿児島、隼人方面都城行きは10時35分です。2番乗り場でお待ちください。 指宿・枕崎線、山川行きは10時45分、0番乗り場から発車します。 快速なのはな号、指宿行きは11時15分、同じく0番乗り場でお待ちください。」 「今日は寝台特急なは号をご利用いただきましてありがとうございました。 なは号でのご旅行は如何でしたでしょうか。 またのご利用を心よりお待ち申しております。 お忘れ物ございませんか、今一度よくお確かめの上お降りください。 終点の西鹿児島です。」 車内放送が流れた。相変わらずトツトツとした喋りである。 なはの運転区間縮小で、この放送を聞くのはもう最後になるのだろうか。
先ほどまで談笑していたKさんが「どうもお世話になりました」と挨拶をして、先に降りていかれた。 先ほどの車内探訪で昨夜の通称「ぼっけもん」さんを探してみたが、その姿をとうとう見つけることができなかった。荷物をまとめて私たちもホームに降り立つ。頭上には新幹線ホームをを含む高架線が、在来線ホームと直交し、この駅の変化を実感する。 以前はホームより南国の太陽を拝むことができたが、その下にいると、その視界は遮られる。駅舎へ向うのに通った地下道は無くなり、私たちは他の乗客たちと一緒に階段を昇っている。昇りきって右手にいくと駅本屋?と思いきや、このフロアに改札口が見えた。この駅は橋上駅になっていたのだ。 趣が感じられた南国の駅の風景は、「どこにでもあるようなワンパターンなもの」に変わり、何となく違和感を覚える。 日常、このようなハコモノにはウンザリし、「非日常」を求めて旅にでたという気持ちがあるからだろう。まぁ、これも、シンカンセンがもたらした代償というものか。 「おやっさん、ちょっと待ちいな」Nakaさんが呼び止めた。 振り返ると、「切符・・・改札で渡す前に写真に撮らんでもええの?」と彼。 「せや、せや、忘れてた」と頭を掻き通路の陽があたったところにそれを置きデジカメを構えた。 汽車旅ファンの私より気が利くこの相棒に感謝・・・ 今日の予定は、午後から桜島をみること。 それまでには、ちょっと時間がある。 どうして、暇を潰し、どこで何を食べようか・・・ 歩きながら、そんなことばかりを考えていたのである。 |
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(つづく) | |||||
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