| 佐世保というところを 一口で説明すると・・・ |
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「佐世保市の歴史は、泉福寺洞窟(瀬戸越)から明らかになります。 |
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| まつろ まつら 末羅国から松浦党 |
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歴史的にこの地が、その名を世に知られるようになるのは明治以降である。それまでは全く無名の地であり、有力な豪族をこの地が育むこともなかった。それに比べ、佐世保の北方には有史以来の小国家があったことが記録に残っている。 卑弥呼(ヒミコ)という女王を擁し、その所在地を巡り数々の論争が行われてきた古代国家・邪馬台国(やまたいこく)。3世紀半ばに中国で書かれた魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、その「くに」に至る行程が記述され、大陸の使節が倭国(日本)に上陸し先ず最初に到達する「くに」が、佐世保の北方の玄界灘に面する地域にあったとされる。名を「末羅国(まつろこく)」と言う。大陸から至近距離にあるこの地と、朝鮮半島や中国大陸との交流はこの頃すでに行われていたのである。 平野部に恵まれないこの地方では、その生活の糧を海に求めてきた。平安後期から鎌倉・室町期にかけて平戸、松浦、伊万里、唐津と長崎、佐賀県にまたがる地域に割拠した豪族の集団は水軍・松浦(まつら)党とよばれた。 この豪族たちは源平の闘いにも関わり、二度にわたる蒙古襲来で壊滅的な被害を受けながらも奮戦したと伝えられている。昨年のNHK大河ドラマ「時宗」にも登場した藤竜也扮する松浦党の首領・佐志房(さしふさし)の活躍ぶりは記憶に新しい。 以後、室町期にかけて東シナ海を渡り、中国(元、明)や朝鮮(高麗)の沿岸で海賊として恐れられた「倭寇(わこう)」は松浦党や瀬戸内の水軍であった。また、平戸にはポルトガル、イギリス、オランダ等の異国との交易により外来文化が伝来した。その役割は、江戸期唯一の貿易港として栄えた南の長崎に受け継がれる。 この北と南の歴史上の活躍とは対照的に、佐世保にはこの地方を平定した平戸松浦氏の代官所が数箇所おかれたくらいで、ひっそりと世に出る機会を待ち、近世を迎えるのである。 |
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一寒村から基地の街へ |
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その佐世保が明治に入り劇的な変容を遂げる。
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佐世保の戦後(米軍基地) |
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戦後、駐留した米軍が、このような「役に立つ」港を見逃すはずも無く米海軍の基地が置かれ、港の主要部分をその管理下に置いた。 港内の水域の約83%が安保条約(日米安全保障条約)と日米地位協定に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、船舶、人など一切の立入りが禁止(A水域)、漁ろうのための立入り、潜水、サルベージのための立入り、船舶の停留のための立入り、合衆国管理船舶から100m以内への立入りの禁止(B水域他)などさまざまな規制や制限が課せられている。 また、海上自衛隊の基地も置かれ、佐世保港には軍船の姿が絶えない。 昭和25年に始まった朝鮮戦争では米軍の艦船がこの港より発進し、街は空前の特需景気に沸いた。基地の近くにある外人バー街には、休暇の米兵でごった返し、毎日がお祭り騒ぎであった。大人たちに混じって「シュウシャンボウイ」と呼ばれた靴磨きや、ピーナツ売りの子供の姿もあった。大人も子供も必死になり生計を立てた時代である。 私の母はこの街で、食堂をしながら3人の息子を育ててくれた。米軍の船が入港したときは街に人が溢れ、商売も成り立ったが、船が入らないときは、この街で働く女の人やボウイさんたちは博多や横須賀に移動し、店はあがったりの状態だった。我が家の家計も「米軍」に大きく依存していたのである。 東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)、この港に米原子力潜水艦シードラゴンが日本で初めて寄港した。「日本を核軍船の基地にするな」と、大規模な反対闘争が行われ、その集会の模様と同時に機動隊と学生の衝突の様子は連日テレビを通じて全国に流された。 この為、西海国立公園や西海橋を観光地としてPRしたいという地元の願いとは裏腹に、佐世保は「原潜の街・基地の街」ということで改めて「有名」になった。 最近でも、アフガニスタンへ向けて出港する自衛隊の様子がニュースとなり、事前通告もなく原潜が寄港したことに、佐世保市長も米軍や国に対し抗議を申し入れたなどのニュースも伝わっている。 要するに明治から現在にいたるまで、この街は「基地」との関わりから離れられない宿命を背負った街であったように思われてならない。 日本に駐留する米軍の専用施設の約75%が集中し、島の約19.5%が米軍基地である沖縄。基地被害とともに米兵による犯罪事件の絶えないこの地の状況を見るにつけ、とても他人ごととは思えない。 基地がなければ貿易港としての別の生き方ができたかもしれない。しかし、国の「安全保障政策」の一環としてその荷物を背負わされ、経済的に基地そのものに依存する時代が永年続くと、利害が錯綜しその状況から脱却するのは至難の業なのである。 バブルの崩壊以降続く出口の見えない不況の中で、リストラ、雇用不安が社会問題化して久しい。40をすぎた中高年の再就職は厳しいものがある。50を過ぎると、余程の技術や必要とされる資格でも無ければ職は先ず無い。新卒の青年たちすら就職が厳しい状況が続いている。 我が家でも下の娘は、大学を卒業しながら「フリーター」を決め込み、職につく様子がない。 私が佐世保の学校を卒業するときは高度成長期の真っ只中であった。多くの新卒者が大阪、名古屋、東京の企業に職をもとめ佐世保駅から「集団就職列車」または急行西海で旅立っていった。中学から大学卒に至るまで、引っ張りだこの状況の中で地元に就職できた学友は全体の1割もいただろうか。 好景気の時ですらこうであった。 この地は、長崎県北部の中心都市と言われながらも、若い人間を黙々と大都会へ送り出してきたのである。 佐世保在住の友人には、塾を経営している友、人形劇団をしている友、造船所や倉庫会社で働いている友、また、女性服のデザインで生計を立てている友がいる。 それぞれがこの地で精一杯生きている。佐世保を離れ、大阪に居着いてしまったものとして、心の底ではなにかうしろめたいような気がするときがある。 (おわり) |
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| 戦後の番外編 |
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| 佐世保を語って石炭のことを忘れていた。 本年に入り北海道の太平洋炭鉱が閉山し、わが国の石炭産業は終止符をうった。解雇された従業員はたちまち生活の糧を失った。再就職が決まった人は1000人の中でわずか6人、地元釧路では2人という。有効求人倍率0.36倍というきびしい環境下で、再就職を必死になって模索する方々の姿がテレビで放映されていた。 1960年代(昭和30年代後半)に始まった石炭から石油へのエネルギー転換政策は、筑豊、北海道と並び有数の出炭量を誇った佐世保周辺の炭鉱を次々に閉山に追い込み、地域の経済に壊滅的な打撃を与えた。 「黒ダイヤ」を生み出し繁栄を続けてきた市町村や島々は人口の激減に見舞われ、数十年の月日が流れた現在においても、「地域産業の復興による過疎化・高齢化からの脱出」が地元の切実な願いとなっている。(高層住宅が立ち並び軍艦島と呼ばれた端島はすべての住民が島から退去し、廃墟と化した姿は時おりテレビの映像で見ることが出来る。) 松浦線(現在の第3セクター・松浦鉄道)に接続し、石炭の輸送のために働いてきた鉄道群(世知原線、臼ノ浦線、柚木線)は昭和40年代には、すべてその姿を消した。 炭鉱の閉山により職を失った離職者はその生活の糧を求めて大阪、名古屋、東京方面へ散っていった。その中に私の友の家族が居たのを忘れることができない。 私が就職した愛知県の工場にも炭鉱出身のオジサンたちがたくさん働いていたのを覚えている。職場ではコツコツと働く人たちばかりで、仕事のことでは良く怒鳴られもしたが、忘年会などの酒席では決まって「炭鉱節」や渡哲也の「流転」がでた。素朴で気のいい人たちであった。 その工場を辞めるときにオジサンたちから餞別を貰った。それから30年近い月日が流れ、今では私も正真正銘の「立派な」オッサンである。 |
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戦後の番外編(その2) |
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本編を公開した後、佐世保へ帰る機会を得た。久しぶりに顔を会わせた先輩、友人との会話の中で、このページの内容について話していると、 @軍港であった横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4都市を対象として、軍に接収された土地や施設を地方自治体や民間に有償もしくは無償で払い下げ、平和産業都市への転換を促進する法律・「旧軍港市転換法(軍転法)」が昭和25年に成立しその是非を問う住民投票も行われたこと。 A同法に基づき水産基地を建設する計画が具体的に進められていたこと。 B法案成立の20日後に朝鮮戦争が勃発し、米軍より返還された旧海軍施設は再び接収され、佐世保は改めて米軍基地の街として歩むことになったこと。 と言うことが判った。 佐世保に生まれ、育ちながら、この事情について私自身不明であったことは、恥ずかしい限りである。 なお、同法は現在も有効であり、他の都市も含め、旧海軍施設が平和利用されている事例はあるが、米軍の基地が今尚置かれているところでは、同じような状況と聞く。 ※佐世保市制100周年に関する朝日新聞の特集記事へ |
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(謝辞) 客車空気調和装置資料室(中村光司)様のご厚意により貴重な写真を戴き、転載させていただきました。改めて御礼を申し上げます。 |
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