故郷は遠きにありて
     思うもの
私の眼に映った佐世保という街)




佐世保というところを
    一口で説明すると・・・


「佐世保市の歴史は、泉福寺洞窟(瀬戸越)から明らかになります。佐世保市街
約1万5千年前の石器が出土し、1万2千年前の層からは、世界最古の土器「豆粒文土器」が出土しました。明治初期までは、人口約4000人の半農半漁の一寒村でした。明治19年に旧海軍の鎮守府が設置されると急速に発展し、明治35年に村から一挙に市になりました。戦後は平和産業港湾都市として発展し、「造船」・「炭鉱」を経て、現在は製造業とともに、県北地域の商業サービス業の中心となっています。
 また、昭和30年に指定を受けた西海国立公園や平成4年オープンのハウステンボスなどのアメニティリゾートが整備され、毎年多くの観光客を魅了しています。」


 以上は佐世保市が公開しているHPの佐世保の歴史の項の記述である。
 朗読をしてみると所要時間は1分弱であり、大分と端折った部分があるのは否めない。

 そこで、私の眼からみた佐世保の断片に触れてみたい。


まつろ    まつら
末羅国から松浦党




 歴史的にこの地が、その名を世に知られるようになるのは明治以降である。それまでは全く無名の地であり、有力な豪族をこの地が育むこともなかった。それに比べ、佐世保の北方には有史以来の小国家があったことが記録に残っている。
 
  卑弥呼(ヒミコ)という女王を擁し、その所在地を巡り数々の論争が行われてきた古代国家・邪馬台国(やまたいこく)。3世紀半ばに中国で書かれた魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、その「くに」に至る行程が記述され、大陸の使節が倭国(日本)に上陸し先ず最初に到達する「くに」が、佐世保の北方の玄界灘に面する地域にあったとされる。名を「末羅国(まつろこく)」と言う。大陸から至近距離にあるこの地と、朝鮮半島や中国大陸との交流はこの頃すでに行われていたのである。

 平野部に恵まれないこの地方では、その生活の糧を海に求めてきた。平安後期から鎌倉・室町期にかけて平戸、松浦、伊万里、唐津と長崎、佐賀県にまたがる地域に割拠した豪族の集団は水軍・松浦(まつら)党とよばれた。
 この豪族たちは源平の闘いにも関わり、二度にわたる蒙古襲来で壊滅的な被害を受けながらも奮戦したと伝えられている。昨年のNHK大河ドラマ「時宗」にも登場した藤竜也扮する松浦党の首領・佐志房(さしふさし)の活躍ぶりは記憶に新しい。

 以後、室町期にかけて東シナ海を渡り、中国(元、明)や朝鮮(高麗)の沿岸で海賊として恐れられた「倭寇(わこう)」は松浦党や瀬戸内の水軍であった。また、平戸にはポルトガル、イギリス、オランダ等の異国との交易により外来文化が伝来した。その役割は、江戸期唯一の貿易港として栄えた南の長崎に受け継がれる。

 この北と南の歴史上の活躍とは対照的に、佐世保にはこの地方を平定した平戸松浦氏の代官所が数箇所おかれたくらいで、ひっそりと世に出る機会を待ち、近世を迎えるのである。
 

一寒村から基地の街へ


 その佐世保が明治に入り劇的な変容を遂げる。
 何かと言えば、上記の如く西の果ての一寒村に過ぎなかった「村」が明治35年(1902年)「町」を飛び越えて一足飛びに全国で54番目の「市」に昇格したことである。

 これは異例中の異例なことであった。全国で54番目の市ということは・・・現在で言うと47の都道府県があり、少なくとも市制が執行されていたと思われる県庁所在地の数を除けば全国でも東京・大阪の大都市圏を含め7市しか残らず、その「大抜擢」ぶりが伺える。ちなみに今年は市制執行100周年にあたると言う。
 
 富国強兵政策を急速に進めた明治政府は、中国やロシアに対する備えをこの地域に求め、佐世保をその前線基地として選んだ。佐世保がその「存在価値」を認められる時期が到来したのである。
 地理的に大陸に近いこと、海岸線の総延長が神戸港の5倍もあるという広い奥行きを持つ港湾をもつこと、10メートルの水深は大型船舶を接岸することが可能である等、軍港としての条件を兼ね備えていたと聞く。

 明治22年(1889年)この地に第三海軍区佐世保鎮守府が設置された。帝國海軍の軍事基地としての役割を背負い、にわかに必要な都市機能が必要となった。
 軍と地元による都市開発が進められ、物資と人を運ぶ交通手段として鉄道の建設が始められた。明治28年(1895年)には肥前山口〜武雄が開業し、明治31年(1898年)には早岐を経て佐世保までが全線開通した。
 当時の長崎本線(鳥栖〜長崎)は早岐(佐世保市)を経由するルートである。(ちなみに、現在の肥前山口〜諫早間の有明ルートの開通は昭和9年まで待たなければならない。)
 この鉄路は「汽笛一声新橋を・・・」で始まる「鉄道唱歌」にも登場する。

つかれてあびる武雄の湯
みやげにするは有田焼
めぐる車輪の早岐より
右にわかるる佐世保道


鎮西一の軍港と
その名しられて大村の
湾をしめたる佐世保には
わが鎮守府をおかれたり

(鉄道唱歌125〜126番、明治33年9月、大和田建樹作詞 )


 「皇国ノ荒廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」。明治38年(1905年)5月27日、日露戦争の帰趨(きすう)を分けた日本海海戦において、帝國海軍連合艦隊・司令長官の東郷平八郎が旗艦「三笠」より各艦船に下した命令である。
  市制執行まもない佐世保を基地とする連合艦隊は対馬沖で、大国ロシアのバルチック艦隊を迎え撃ち、これを撃破した。ロシア側が全艦船38隻の内、沈没21隻、降伏・だ捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、目的のウラジオストックに到達したのは残り3隻の小艦艇だけであったのに対し、日本艦隊の損害はわずかに水雷艇3隻のみという世界海戦史上、まれな完全勝利であった。これを契機にアメリカのポーツマスで日露講和会議が実施されることとなった。
日本海海戦は、日露戦争の勝利を導く上で決定的な役割を果たしたのである。
 
 日露戦争自体は、中国東北部の利権をめぐる争いがその発端となっているが、負けると本土自体がロシアの占領を受けかねないといった脅威に対する「祖国防衛戦争」という見方もあった。ところが、この奇跡的な「勝利」に酔いしれた日本は「軍事大国」としてその覇権を大陸に求めていくことになる。
 明治、大正、昭和にかけて、佐世保港を出帆した日本軍は中国、朝鮮、東南アジアの国々に進出し、その国々を蹂躙し、韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと突き進むのである。針尾の無線塔
 「ニイタカヤマノボレ」。太平洋の彼方の大国アメリカに挑戦状を叩きつけたとも言うべき真珠湾攻撃作戦の暗号電報は佐世保南部にある針尾島の無線塔から発信された。

 佐世保海軍工廠(後の佐世保重工業)では軍船の建造・修理が行われ、戦艦大和の姉妹艦・戦艦武蔵の儀装工事もここで行われている。
 軍事一色のこの街には人や物資が集まった。昭和19年(1944年)には人口が28万人を超え、街は九州で第4の都市として隆盛を極めたと言う。
(私の身近なところでも、母方の親族には隣の佐賀県より移り住んだ家が多く、関西に実家を持つ父は、海軍の見習い士官として、この地に赴任し、母とめぐり合い、私がこの世に生を受けた。)

 ところが、昭和20年6月28日深夜から翌朝にかけて、米軍の爆撃機はこの街を襲い、一夜にして街の大半は灰燼と帰すのである。海からの敵に対しては要塞としての機能を持ったこの港も、日本軍がすでに制空権を失ったこの時期、空からの攻撃に対してはほとんど無力であった。
 仏教で言う因果応報といおうか、軍事基地というものの宿命であろうか。幸いにして我が母はその命を永らえたため、現在の私が存在する。


佐世保の戦後(米軍基地)




 戦後、駐留した米軍が、このような「役に立つ」港を見逃すはずも無く米海軍の基地が置かれ、港の主要部分をその管理下に置いた。
 港内の水域の約83%が安保条約(日米安全保障条約)と日米地位協定に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、船舶、人など一切の立入りが禁止(A水域)、
漁ろうのための立入り、潜水、サルベージのための立入り、船舶の停留のための立入り、合衆国管理船舶から100m以内への立入りの禁止(B水域他)などさまざまな規制や制限が課せられている。
また、海上自衛隊の基地も置かれ、佐世保港には軍船の姿が絶えない。

 海上自衛隊の軍船昭和25年に始まった朝鮮戦争では米軍の艦船がこの港より発進し、街は空前の特需景気に沸いた。
 基地の近くにある外人バー街には、休暇の米兵でごった返し、毎日がお祭り騒ぎであった。大人たちに混じって「シュウシャンボウイ」と呼ばれた靴磨きや、ピーナツ売りの子供の姿もあった。大人も子供も必死になり生計を立てた時代である。

 私の母はこの街で、食堂をしながら3人の息子を育ててくれた。米軍の船が入港したときは街に人が溢れ、商売も成り立ったが、船が入らないときは、この街で働く女の人やボウイさんたちは博多や横須賀に移動し、店はあがったりの状態だった。我が家の家計も「米軍」に大きく依存していたのである。
 
 東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが行われた昭和39年(1964年)、この港に米原子力潜水艦シードラゴンが日本で初めて寄港した。「日本を核軍船の基地にするな」と、大規模な反対闘争が行われ、その集会の模様と同時に機動隊と学生の衝突の様子は連日テレビを通じて全国に流された。
 この為、西海国立公園や西海橋を観光地としてPRしたいという地元の願いとは裏腹に、佐世保は「原潜の街・基地の街」ということで改めて「有名」になった。

 最近でも、アフガニスタンへ向けて出港する自衛隊の様子がニュースとなり、事前通告もなく原潜が寄港したことに、佐世保市長も米軍や国に対し抗議を申し入れたなどのニュースも伝わっている。
 要するに明治から現在にいたるまで、この街は「基地」との関わりから離れられない宿命を背負った街であったように思われてならない。

 
日本に駐留する米軍の専用施設の約75%が集中し、島の約19.5%が米軍基地である沖縄。基地被害とともに米兵による犯罪事件の絶えないこの地の状況を見るにつけ、とても他人ごととは思えない。
 基地がなければ貿易港としての別の生き方ができたかもしれない。しかし、国の「安全保障政策」の一環としてその荷物を背負わされ、経済的に基地そのものに依存する時代が永年続くと、利害が錯綜しその状況から脱却するのは至難の業なのである。

 バブルの崩壊以降続く出口の見えない不況の中で、リストラ、雇用不安が社会問題化して久しい。40をすぎた中高年の再就職は厳しいものがある。50を過ぎると、余程の技術や必要とされる資格でも無ければ職は先ず無い。新卒の青年たちすら就職が厳しい状況が続いている。
我が家でも下の娘は、大学を卒業しながら「フリーター」を決め込み、職につく様子がない。
 私が佐世保の学校を卒業するときは高度成長期の真っ只中であった。多くの新卒者が大阪、名古屋、東京の企業に職をもとめ佐世保駅から「集団就職列車」または急行西海で旅立っていった。中学から大学卒に至るまで、引っ張りだこの状況の中で地元に就職できた学友は全体の1割もいただろうか。 好景気の時ですらこうであった。 この地は、長崎県北部の中心都市と言われながらも、若い人間を黙々と大都会へ送り出してきたのである。

 佐世保在住の友人には、塾を経営している友、人形劇団をしている友、造船所や倉庫会社で働いている友、また、女性服のデザインで生計を立てている友がいる。
 それぞれがこの地で精一杯生きている。佐世保を離れ、大阪に居着いてしまったものとして、心の底ではなにかうしろめたいような気がするときがある。
 
                (おわり)

 
戦後の番外編


 佐世保を語って石炭のことを忘れていた。

  本年に入り北海道の太平洋炭鉱が閉山し、わが国の石炭産業は終止符をうった。解雇された従業員はたちまち生活の糧を失った。再就職が決まった人は1000人の中でわずか6人、地元釧路では2人という。有効求人倍率0.36倍というきびしい環境下で、再就職を必死になって模索する方々の姿がテレビで放映されていた。

 1960年代(昭和30年代後半)に始まった石炭から石油へのエネルギー転換政策は、筑豊、北海道と並び有数の出炭量を誇った佐世保周辺の炭鉱を次々に閉山に追い込み、地域の経済に壊滅的な打撃を与えた。
 「黒ダイヤ」を生み出し繁栄を続けてきた市町村や島々は人口の激減に見舞われ、数十年の月日が流れた現在においても、「地域産業の復興による過疎化・高齢化からの脱出」が地元の切実な願いとなっている。(高層住宅が立ち並び軍艦島と呼ばれた端島はすべての住民が島から退去し、廃墟と化した姿は時おりテレビの映像で見ることが出来る。)
 松浦線(現在の第3セクター・松浦鉄道)に接続し、石炭の輸送のために働いてきた鉄道群(世知原線、臼ノ浦線、柚木線)は昭和40年代には、すべてその姿を消した。
 炭鉱の閉山により職を失った離職者はその生活の糧を求めて大阪、名古屋、東京方面へ散っていった。その中に私の友の家族が居たのを忘れることができない。

 私が就職した愛知県の工場にも炭鉱出身のオジサンたちがたくさん働いていたのを覚えている。職場ではコツコツと働く人たちばかりで、仕事のことでは良く怒鳴られもしたが、忘年会などの酒席では決まって「炭鉱節」や渡哲也の「流転」がでた。素朴で気のいい人たちであった。
 その工場を辞めるときにオジサンたちから餞別を貰った。それから30年近い月日が流れ、今では私も正真正銘の「立派な」オッサンである。


戦後の番外編(その2)

 本編を公開した後、佐世保へ帰る機会を得た。久しぶりに顔を会わせた先輩、友人との会話の中で、このページの内容について話していると、

@軍港であった横須賀、呉、舞鶴、佐世保の4都市を対象として、軍に接収された土地や施設を地方自治体や民間に有償もしくは無償で払い下げ、平和産業都市への転換を促進する法律・「旧軍港市転換法(軍転法)」が昭和25年に成立しその是非を問う住民投票も行われたこと。

A同法に基づき水産基地を建設する計画が具体的に進められていたこと。

B法案成立の20日後に朝鮮戦争が勃発し、米軍より返還された旧海軍施設は再び接収され、佐世保は改めて米軍基地の街として歩むことになったこと。

と言うことが判った。

 佐世保に生まれ、育ちながら、この事情について私自身不明であったことは、恥ずかしい限りである。
 なお、同法は現在も有効であり、他の都市も含め、旧海軍施設が平和利用されている事例はあるが、米軍の基地が今尚置かれているところでは、同じような状況と聞く。

※佐世保市制100周年に関する朝日新聞の特集記事へ


(謝辞)
 客車空気調和装置資料室(中村光司)様のご厚意により貴重な写真を戴き、転載させていただきました。改めて御礼を申し上げます。

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