柚木線(廃線跡)を歩く




]

              2002.5.5.   ・・画像にマウスを置くと別の画像を表示します。



柚木(ゆのき)


 

レールバス キハ 02-9 藤田憲一様提供
 昨日の大雨が嘘のような五月晴れである。
ここは、長崎県佐世保市柚木(ゆのき)町。昨夜お世話になったG君に別れを告げ、山道の下り坂を一人歩いている。
今日は、今から35年前の昭和42年に廃線となった旧国鉄柚木線(柚木より左石までの3.8キロの区間)の跡をあるいてみようという訳である。

 小学生の頃、この線路の上を走っていた「レールバス」と呼ばれた単行のディーゼルカーに乗ったことがある。
1両っきりのワンマンのこの車両は私の眼に「珍しいもの」と映った。
「汽車」と言えば、松浦線の線路上を走るC11が牽引する3両編成の客車列車のイメージしかなかったのである。
また、乗合バスにも車掌さん(女性)が乗務し、「次の停留所は○○、お降りの方はお知らせください。」とコールする姿が普通の光景であった時代であった。
  
 佐世保を含む長崎県北地域の松浦炭田は全国有数の産炭地として知られ、「黒いダイヤ」とよばれた石炭は明治以来、日本の近代産業の発展を支えてきた。
子供の頃、社会科で郷土の産業について習った。魚の漁獲高は北海道に次ぎ第2位。石炭の産出量は第3位という数字を覚えている。
昭和30年代半ばの最盛期には、県内の石炭生産量は660万トンと全国の12.5%を占め、北海道・筑豊(福岡)に次ぐ生産地だったのである。
何でも良いから自分の故郷が「目立つ」のは嬉しくないはずがない。もっとも、昭和40年代に入ると、この地はアメリカ軍の原潜寄港という基地問題で「目立つ」ことになるのだが、これは本日の主題からすると番外編の話。

昭和21年当時の柚木線時刻表(クリックで拡大
 柚木線は、大正9年、柚木〜相浦間14.1キロの区間に敷設された軌道間762mmの「佐世保軽便鉄道」がその始まりである。当時この地域にあった16カ所もの炭鉱から取り出された石炭を積出港である相浦まで運び続け、鉄道とともにこの沿線は賑わった。

「月が出た出た月がでた〜あっ、ヨイヨイ・・・」酒席では必ずと言って良いほど「炭鉱節」がうたわれたこの当時、「炭鉱夫(たんこうふ:作業員のこと)」は手っ取り早く高収入を得ることのできる職業であった。

 が、 石炭から石油へのエネルギー転換政策が進められた結果、この地方の鉄道群は、他の産炭地と同じように「その使命を終えた」として、「街ごとスクラップとして捨て去られて」いく。

 昭和42年7月8日、九州北部から本州南部にかけて停滞していた梅雨前線は台風第7号から変わった熱帯低気圧に触発され、前線近傍で雷を伴った強い雨が集中的に降った。
佐世保地方は1時間に125ミリの集中豪雨に見舞われる中、土砂崩れや鉄砲水が多発、柚木線は壊滅的な被害を受けた。
寸断された鉄路に復旧の手が差し伸べられることはなく、そのまま廃止に追い込まれたのである。
そして、その5年後の昭和47年(1972年)柚木炭鉱はその歴史を閉じる。

 ※「石炭の輸送」のために敷設され今は廃線となったこの地方の鉄道には、臼の浦線(佐々〜臼の浦)、世知原線(吉井〜世知原)、佐世保鉄道(旧線区間)等がある。
国鉄民営化の際、松浦線(伊万里〜佐世保)は廃線の憂き目にあうところだったが、第3セクター松浦鉄道として存続している。

昭和40年(廃止の2年前)の運行時刻表。
朝夕に2往復づつのレールバスが運行される他、
昼間はまったく開店休業状態という寂しい姿だった

下り 722 723 725 727
左石 616 648 1701 1814
肥前池野 620 652 1705 1818
柚木 625 657 1710 1823
上り 722 724 726 728
柚木 630 740 1751 1828
肥前池野 634 744 1755 1832
左石 637 747 1758 1835





炭鉱坑口跡にたつ工場  坂を下っていくと、その中ごろに○○金属という事業所の敷地が見えた。柚木出身のG君によると、正面の建物の裏側に炭鉱の坑口があったと言う。他人の敷地に無断で入り込むわけにはいかない。

 昨日は、雨が降る中G君の自動車に乗せてもらい、この街にある坑口の跡を探してみたが、終ぞその跡を見ることはできなかった。
閉抗して30年以上も経ち街並みもすっかり変わった処を、ふいと思いつき、何の予備知識も無く探しまわったのだから無理もない話・・・

それはともかく、この地域の炭鉱は他の地方と違い、小規模な鉱山がが多く、そのほとんどがその痕跡を探すのは困難だそうだ。




線路跡は遊歩道に



 
柚木駅跡にたてられた市営住宅 遊歩道を示す石柱
柚木駅跡には公団住宅が 遊歩道の傍に立てられた石柱

  柚木の街の中を柚木駅跡を捜す。木造の小さな駅だったとのかすかな記憶を頼りに、G君から聞いた場所の付近を見渡すが、それらしきものが見当たらない。仕方なく、通りかかったオバサンに聞くと、市営住宅がたっているあたりと言う。

 最近は、近所でも、その付近をしばらく通らないと、知らぬ間にマンションが建っていてびっくりするご時世。ましてや、35年も前の風景が残っているはずはないのである。

 しかし、柚木線の跡は舗装され遊歩道としてほぼ完全な形で残っていた。国道498号線より入ったところに「健康ウオークモデルコース折り返し点」と書かれた石柱がたっていた。

柚木線跡の遊歩道 遊歩道(廃線跡)はその国道とほぼ並行して延びている。その左側を相浦川が流れる。
昨日の肌寒さから一転してのポカポカ陽気である。初夏を思わせる日差しの中、舗装道路を歩き始める。
 
時折、ジャージ姿に運動靴というハイキングスタイルのハイカーとすれ違う。ブレザーに革靴姿というのは私くらいだ。場違いな服装と気づいたが仕方がないおよそ1時間くらいの行程だから、このまんまで通すことにする。

この遊歩道の上を歩いておられる方々は私より少し年配の方々が多いようだが、どの方からも「こんにちは」と声をかけられ、慌てて返事を返したつもりが声にはならず、我ながらギコチナイ挨拶だった。
 
国道や他の道との交差する箇所には、車止めのパイプ柵が設けられ自動車はこの遊歩道には入れない。また、歩行者の迷惑を顧みず、路上を無神経なスピードで駆け抜ける自転車の姿もない。都会暮らしの日常では味わえない風情である。

国道、相浦川と並行して延びる遊歩道 柚木線跡は、この遊歩道がある以外、先ほどの柚木駅跡といい、鉄道がとおっていたという痕跡は見当たらない。行き当たりばったりに下調べもせずに来た所為か、その痕跡を見つけることはできなかったというのが正確な言い方かもしれない。

 昨夜、故郷に帰ったG君のために沢山の彼の幼友達が酒席を囲んだ。昔話の中に時おり柚木線が登場した。耳を傾けていると、この鉄道がほんの数年前まで存命していたかのような話し振りであったことが心に残った。
柚木線は遊歩道に形を変えているけれど、人々の青少年期の思い出の中では、単行のレールバスが走っているのであろう。



池野(いけの)



国道より肥前池野駅跡方向を望む

 柚木〜左石間で唯一の中間駅があった。「肥前池野(いけの)」という駅である。40分ほど歩いたので、もう、そろそろ駅跡に行き着くのではないかと思うが、それらしき風景は見当たらない。

「スミマセン。池野の駅の跡はまだ先でしょうか?」前を歩く2人のご婦人の方に尋ねると、「国道をわたったとこですよ」と教えてくれた。道の左側に市営住宅があったので、そのほうをキョロキョロと捜していると「ここですよ」と声がした。先ほどのご婦人である。
その方向をみると、国道と線路跡の間のわずかな隙間があった。

 駅と言えば、列車の行き合いのために線路が分かれ、島式のホームあるいは相対式の2つのホームがあり、そこそこの大きさの駅舎がたっている。
駅前は広場になっていて・・・といった勝手な想像をしていたが、その地にたってみると、片側ホームに小さな木造駅舎がたっていたのかなと思った。
列車が停まる以上これも駅である。
「お先に・・・」とご婦人方は声をかけ歩いていかれた。

 ※ところが、これは私の大いなるミステイクであった。このお二人が指さされたのは、遊歩道のもっと先、国道と別れてしばらく歩く方角だった。その右側に公園(池野公園)があり、路端にホーム跡があったのである。駐車場を駅跡と勘違いした私はそれを見過ごしてしまった。行き当たりばったりの旅とは言え、恥ずかしい限り・・・。

 
遊歩道上に建った鉄筋住宅
遊歩道の先に
またもや公団住宅が
住宅の横を通り抜けると
公園があり、その先は遊歩道が復活する。


売り地の広告 池野駅跡をすぎしばらく歩くと4階建ての住宅が行く手を阻んだ。立ち止まり「柚木線跡もここまでか」と思っていると、先ほどのご婦人たちが、住宅の横を先にすすんでおられたので、その後から歩いてみる。すると、住宅の先が公園になっており、その先に、先ほど来の道路が復活した。この道は自動車が通るわけでなし、人間が通れれば良いのだから、こういうのもありかなと思いながら、歩を先に進める。

 柚木を出発して、1時間近くになろうとしている。
きょろきょろとあたりを眺めながらの歩行であるから、大人が通常あるく速さの4キロには及ばないゆっくりした歩きであるから、さして気にならない。急ぐ必要もないのだ。

 しばらく歩くと、絶対にみたくないモノを観てしまった。「線路跡を売却する」との広告看板である。
「売地/旧国鉄用地部分」との表示があるので、ここは国鉄の民営化後「清算事業団」が管理していたのだろうか。 鉄道が廃線となった後30年以上も、このように保存してあったのだから「もういいか」と思う反面、一抹の寂しさを感じる。




左石(ひだりいし)




遊歩道の起点 中学校が見えてきた。この付近はなだらかな丘陵地帯となっているのか、登りあり、下りありの起伏がある。遠景に左石の駅が目に入ってくる。
その校庭の横を過ぎると、登り道の先にバス道が交差し、車止めがあるのがみえた。そのバス道路に差し掛かると、廃線跡の遊歩道はここで終わりであった。

 道を渡ったところはバス停になっており、その先は砂利が敷き詰められ、150メートルほどの下り勾配となっている。
駅構内には、松浦鉄道の本線から分岐した柚木線の線路が、30年以上の歳月を経た現在も残されており、この坂道の延長線上で途切れていた。

 この高台の下を松浦鉄道の線路が潜り抜けている。高低差は10メートル弱はあると思うが、このような勾配を列車が行き来していたのだろうか。
この付近の線路跡は埋め立てられたという話をきいたことがあるが、それがどのあたりなのかは良く分からない。


 
左石駅を望む バス道路から駅舎に続く坂道を降りてゆく。
柚木から1時間半も掛かってしまった。裏地のついた上着をきているので、汗をかいてしまった。が、心地よい汗である。
お陰で、昨夜のアルコールを吹き飛ばすことができ、大分と身体が軽くなったように思う。

 坂を下り終えたところで、「こんにちは」という声を聞いた。あたりをみわたすと、中学生(?)の女の子が2人、こちらをみていた。他に誰も見当たらない。「誰かの人違いではないか」とか「何かおかしな格好でもしていたかな」と思いを巡らせるが分からない。とりあえず、こちらも「こんにちは」を挨拶を返すと、軽く会釈をしてその娘たちは坂を登っていった。

なにかしら、ほのぼのとしたあったかい気分になった。

     (「旧産炭地・松浦街道を行く」へつづく)

あとがき




左石駅に残った柚木線の線路
左石構内に残った柚木線の線路「西九州の鉄道」様提供
 画像の右端の線路は駅構内に残った柚木線跡である。列車はこの先の急な勾配を列車が上り下りしたのでは無かった。
実は柚木線の線路の先にトンネルがあって、ここを潜り抜け、行き来していたのである。遊歩道の終点付近と駅の高低差に持ち続けた疑問(愚問?)が氷解した。

 池野駅の位置も含め、懇切丁寧なご指導を承り、左の画像の掲載を快諾された「西九州の鉄道」(佐世保線沿線住民様)に心から感謝する次第です。
尚、同サイトでは池野駅跡やトンネル跡の写真を掲載されている。また松浦鉄道、佐世保線等、佐世保近傍の鉄道と駅に関する多くの画像が掲載されているのでご訪問されるようお奨めします。



最終更新2010.8.24


ボタンボタン
  

(C)Copyright 2002-2010 Yoji Machino
                 All rights reserved