変化の多い季節となりましたが、お元気でしょうか。
ところでこんな見出しをつけると、浅田次郎の小説『天国までの100マイル』を思い浮かべる方もあるのではないでしょうか。仕事も家庭も失ったどうしよ うもない中年男が、心臓を病む年老いた母親の命を救いたいと、病院までの100マイル(160キロ)の道のりを運転する。そして奇跡が....。そして その中年男が口ずさんだのが、“500 miles”でした。むかしPeter Paul & Maryが歌ったこの歌に私も中年男と同じ郷愁を感じています。
横浜緑園キリスト教会牧師 原田憲夫
「天国までの500マイル」
“If you miss the train I'm on.........A hundred miles........”
だれの解説だったか、この“500
miles”は、アメリカのジョージア州に古くから伝わるホーボー・ソング(放浪者の歌)をヘディ・ウェストという人が採譜して広めたもので、原曲は
1905年頃に黒人によって歌われていたものだそうです(ついでに“500マイル”というのは、“はるか遠く”という意味だとありました)。
もしこの歌が黒人によって歌われていたものだとすると、ひょっとしてこれは元々は賛美歌(黒人霊歌)ではなかったかという気がします。特に次の一節です。
“Lord, I'm five hundred miles From my home”(主よ、私は故郷からはるか遠く離れています)
これはどことなく新約聖書の有名な「放蕩息子」の話に通じるのです。この「放蕩息子」は父親の生きているうちに多額な相続財産を要求し、手にすると家を飛び出して遠い国へ行った。しかし、放蕩三昧のあげく、金を使い果たし、その上飢饉も重なり、食うものにも事欠き、ついに当時の人間がさげすんでいた豚の餌で腹を満たしたいと思うほど落ちぶれてしまった。“Not a shirt on my back Not a penny to my name”(1枚のシャツも1銭もない)
けれども、そのどん底の中で、「放蕩息子」は我に返り、自分を取り戻した。そして故郷、なつかしい父の家を思った。自分がどんなに大きな罪を犯したかを謝ろう、もう息子と呼ばれなくてもいい、雇い人のひとりでいい、そう決心して故郷に帰った。そんなボロボロになった息子の姿を遠くに見つけると、父親は走り寄って<息子>を抱きしめた。これが「放蕩息子」の話です。
A.D.1世紀に活躍したキリストの弟子にパウロというすぐれた人物がいます。このパウロがかつて求めたものは、地上の名声、地位、最高の知恵、権威、栄誉...それだけではない、だれにもない神秘的な体験、能力....それらは彼が目指す夢でした。生きている以上だれだって幸せを求めます。すばらしい人生の夢をもちます。それが問題なのではありません。パウロは、自分本位、欲望のままに生きることが問題だったというのです。いっときの快楽は得られても永遠の喜びは失うからです。自分は満足しても周囲が不幸になるからで
す。そしてそれは必ず自分に災いをもたらします。ですから、パウロは自分の 歩んできた道を振り返りながら、涙ながらに「その人生の終着点は滅びだ」と訴えたのです。
古人も同じようなことを言いました。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(旧約聖書箴言14:12)と。自分の目 にはまっすぐだ、正しいといくら映っても、肝心の自分の心がねじ曲がっていれば危険です。そんな自分本位の道はやがて滅びを招くというのです。
「天国までの500マイル」と書いたように、私たち人間と神との間ははるかに遠く離れています。
“Lord, I can't go a home This a way”(主よ、このままでは家(たましいの故郷)に戻れません)
けれども、「放蕩息子」がたましいの故郷、父の家に帰ったように、私たちも天の国へ行くことができるのです。神は救い主イエス・キリストによってご自分に近づく確かな橋を用意されました。私たちの罪の身代わりとなったキリストの十字架は、その「救いの橋」です。十字架は神と人間との「レインボーブリッジ」です。
ですから、キリストを知ったパウロは「私たちの国籍は天にある」(新約聖書ピリピ3:20)と力強く語るのです。この地上の歩みを終えてもそこが終着点ではない。行くべきところがある。天国です。この地上の生涯を終えて天国へ移る時、この朽ちていく肉体が滅びない栄光のからだへと変えられるのです。
“If you miss the train I'm on....”(もしもあなたが私の乗っている列車に乗り遅れたら....)
救い主キリストを知らない人生には「天国までの500マイル」はかぎりなく遠いでしょう。しかし、救い主キリストを知っている人には「1マイル」もないのです。
あなたもご一緒に天国までの列車にお乗りになりませんか。
Ω
〜シリーズ:バングラデシュを行く〜(1)小森るみ子
「あっつい…。」
リキシャ(人力車のようなもので、自転車の後ろにイスがあって人を乗せて走る乗り物)の上に乗りながら汗をぬぐう。
気温は一年の殆どが40度前後。おまけに湿度は雨季だと80%もある。ぐったりするような暑さ。リキシャをこいでいるおじさんはさらに暑いだろう。
「人間の筋肉ってこうなってるのか。」と思わせるような筋肉。上半身は裸で下は「ルンギ」という筒状になっているスカートみたいな男性の普段着をはいている。
「きっと体脂肪率は10%以下だな。うらやましい。」
おっとっと、あんまり考え事をしていると民家の屋根にはぶつかりそうになるわ、牛とぶつかりそうになって急ブレーキ。落っこちたらたまんない。
「アジアで一番汚い街」という不名誉な代名詞をつけられた街ダッカ。ここはバングラデシュの首都だ。
1971年にパキスタンから独立し、その後産業がないというだけでなく、洪水やサイクロンに見舞われ、貧しさにおいても5本の指に入る。
街の中は人で溢れかえっており、リキシャ、車、人、牛、ロバが一緒くたになって道路を往来する。生肉を吊り下げて売る店の臭いやごみの臭い。
そういうものが交じり合ってなんともいえない雰囲気をかもし出している。
ちょっと人ごみに出かけるとすぐに物乞いが来て「マダム、お恵みを…。」と哀れみを誘う。こういう物乞いの後ろにはヤクザみたいなのがいて、
彼らにあげたお金は吸い取られるとか、無理やり子供を誘拐して手足を切り落としたりして、物乞いをさせるとかいうことをよく聞く。
だから、お金はあげたいけどぐっとこらえ、あげないようにするのも一苦労。「おじさんごめんね。細かいお金持ってないからさ。」何ていうと
「おつりがあるよ、マダム。」と言ってくる。初めてこの返事を聞いたときはのけぞった。物乞いがおつりをもっている…なんとも用意周到だ。
私と友人は教会の人々から支援を受けて、2000年9月に日本を出発し、約3年間バングラデシュに住んだ。
教会と関係のあるNGOを通して宣教団が建てたクリニックで看護婦として働いていた。
クリニックはダッカから車で2時間ほど北上した所の小さな村にある。医者は週に2回来る。あとは現地の看護婦と私たちだけ。
電気も4,5年前に通ったばっかり。電話もない。
村の生活はシンプルで、私たちはシャワーを使えたけど、電気が何日も止まると、井戸に水を汲みに行く。
村の人は毎日井戸で水を汲み、そこでみんなで水浴びもする。暑い国だから一日に何回も水を浴びないと暑さがしのげない。
水浴びは人々の喜びのときでもある。
食事はカレー。とにかく来る日も来る日もカレー。これでもかというほどカレー。でも不思議となれてくると毎日でも食べたくなってくる。
「やっぱ、日本人の口にあってるかも…。」なんて思いながら手でカレーを食べる。バングラデシュでは右手は神聖な手、左手は不浄の手。
だから食事をすると時は右手で食べる。箸もフォークやスプーンもない。ここもまたシンプル。人間ってこうやって暮らせばシンプルに暮らせるんだな。
何て思ってしまう。
子供たちはいつも元気に、「シスター!」(外国人の女性のことをこう呼んだりする)とか言って嬉しそうに近づいてくる。
学校は朝の9時ごろから始まって12時半頃には終了。「早っ!」という感じ。そのあとは木登りしたり、みんなと遊んだり。
牛の世話、草刈、バザールに牛乳を売りに行ったりとお手伝いもする。そんな子供たちを見ていると、「日本の子供たちは勉強ばかりでなんだかかわいそう。」
と思えてくる。ここの子供たちは貧しいけどたくましく生きていく。
彼らに教わることは多い。道端に座っているおじさん。体が事故かなんかで半分無い。でも、今日も元気に物乞いをしてる。
「こんなになってまで人間て生きていかなければならないのかな?」と思う。
ある人が「生きることは戦いだ」と言っていた。生きることは生易しいことじゃない。でも生きていく。
神さまは私たち一人ひとりを大切な者として愛してくださっているのだから。そんなことを彼らから学んだ気がする。
「わたしの(神の)目には、あなた(人)は高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」聖書
(次回はクリニックのお話です。お楽しみに!)
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