緑園の丘 2004年夏号 vol.51
緑園の丘 2004年夏号 vol.51

 厳しい暑さが続きますが、お変わりありませんか。さて、私たちの教会はちょうど今年で満40歳です。1964年秋にドイツから来た宣教師(すでに帰 国/引退)が二俣川(当時は保土ヶ谷区)で二軒長屋を借りて働きを始めました(1964年といえば東京オリンピックが開催された年で、今年はアテネ・ オリンピックですね。私たちも世界の平和を願って声援を送ります)。今号に私たちの教会の写真を掲載しました。この40年間に街並も人々も教会堂も変 化しました。けれども、教会は「十字架」を掲げつづけています。私たちは40にして惑わず十字架の愛を語りつづけます。

 横浜緑園キリスト教会主任牧師 原田憲夫


不惑の40年−教会が語りつづける十字架の愛−

 「十字架」のメッセージとは、別の言葉で言えば、最初の写真に掲げられた「神は愛なり」ということです。しかしなぜ十字架が愛なのか、どうもピンと きません。そこでその手がかりとなる新約聖書の言葉を引いてみることにします。  「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世(私たち人間)を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして 滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

芥川が絶賛した聖書の物語  この「滅びる」という言葉を、キリストは、父のもとを飛び出して行った息子の物語の中で、「いなくなった」(滅びた)と表現しました。芥川龍之介が 短編小説の極地だと絶賛した新約聖書ルカの福音書15章11節以下の物語です。 身近な人、愛する人が亡くなるということは、他人には推し量れない、大きな喪失感をもたらします。理由は何であれ、それまで一緒にいた者がある日から 「いなくなった」という事実だけで、残された者の心は動揺し、深い悲しみを背負わされるのです。どんなに理性で受け入れたとしてもです。

「遠い国へ」  息子は、遺産として受け取る財産を要求して、「遠い国へ」旅立ちました。この家には、自分を実現する場がないと思ったのか、あるいはここ以外の家/ 世界で見つかると思ったのか、息子は父の家を飛び出した。父の思い、母の心配、兄弟たちの嘆きをそこに置いたまま遠い国へと旅立ちました。「遠い国」 というのは単に時間と場所が移ったというだけではありません。父の世界と「縁を切っ」たということです。受け継がれてきた生き方や考え方、大切な人間 関係、彼を支える共同体を捨てたということです。  このときキリストが話した父とは万物の創造者である神であり、息子とは、神に背を向け、自分中心に、自分の欲望のままに突き進む私たち人間のことで す。

「滅びないように」  息子は、遠い国で自由奔放、放蕩三昧の日々を送りました。周りの人間も彼を利用できるだけ利用し、利用価値がなくなるとみんな離れていきました。も はやだれも彼の相手をしない。パワーゲームに負けたのです。遠い国で、ついに、自分が豚に与えてきた食べ物さえ食べさせてもらえなくなった時、自分が 人間として扱われていないことに気がつき、深い孤独の中に沈みました。一歩踏み出せば、破滅しかないところにきていたのです。けれども、その深い孤独 が、その惨めさが、彼を「我に返らせる」ことになったのです。あんなにかたくなに否定してきた父の世界、神の世界を強く思い起こしたのです。

レンブラントの「放蕩息子の帰郷」  有名なエルミタージュ美術館(サンクトペテルブルグ)には、レンブラント晩年の作品があります。「放蕩息子の帰郷」です。ボロボロになって帰ってき た息子を父が迎えた場面が描かれています。 「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」という息子の本心、そして肩越しに両手で包み込む父の穏やかな表情を通して息子の悔い改めと安 堵の涙が背中から伝わってきます。  レンブラントが描いたように、「ひとりも滅びないように」と願う神の深い愛は、救い主イエス・キリストの十字架という人類の身代わりの死を通じてす べての人に届けられているのです。これを手にしているあなたにも届けられているのです。あなたも今日、あなたを愛し、あなたを心配しているあなたの神 の元へ帰ろうではありませんか。(Ha)


〜シリーズ:万騎が原でお会いしたお方  

  私が結婚を機に、万騎が原に来て35年あまりの年月が経ちました。この地で、家族と暮らし良き友人を得て、何よりも主イエス・キリスト様にお会いし、 今に至るまでこのお方の顧みのうちに人生の大半を過してまいりました。  子供たちがまだ幼かった頃、子育てや近隣の人たちとの付き合いにとまどい、漠然とした不安を覚えていた時、二俣川キリスト教会の集会に誘われました。  婦人会や家庭集会での聖書の学びや信徒の方々との交わりはこれまで経験したことのない別の世界であり新鮮な驚きを感じました。 でも違和感なく受け入れている心地よさがあり、わからないことばかりなのに不思議な魅力を持った聖書のことばに引き入れられていきました。  大いなる創造主なる神が、愛なる方であり、この小さな私にも身近に関わっていてくださり、日々の生活のただ中に共にいて、 導いていてくださることを知ることができました。同時に私に欠けているもの、病んでいるところが明らかにされ、 今までの不安の原因がそこにあることに気づかされました。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、 病人です。」新約聖書マタイ9章12節  「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」新約聖書ルカ19章10節

 長い迷いの時、試練の時を経て主の御愛の招きをはっきりと知ることができました。 礼拝出席を強く願わされ、それに向けての努力のうちに私の生活全般は整えられ思い煩いはぐっと少なくなりました。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」          新約聖書マタイ6章33節

 教会での奉仕や交わりを通してより良い人間関係が養われ、実践の場として訓練されました。  教会が二俣川から緑園に移り、新しい多くの人々との出会いがあり、私の教会生活はさらに祝された豊かなものとなってきました。 今は一人暮らしておりますが、日々、万騎が原でお会いしたお方、主イエス・キリスト様と共に歩む幸いを身に沁みて感謝し喜んでおります。   万騎が原在住 K.H. 

 

牧師による聖書宅配便

 毎月第2水曜の午後、牧師が我が家の茶の間に来て聖書の話をしてくださいます。 お茶を飲みながら気軽に、質問や感想、その他人生観、命と死、文学、音楽、絵画、旅の話も出て、牧師と親しくお話する楽しいひと時です。 聖書を持っている方、読まれた方も多くいらっしゃるでしょう。しかし、読んでみたいけどなかなか一人では読めない。

本や映画やテレビなどで聞く聖書のことば、
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人ねたみません。 愛は自慢せず,高慢になりません。」
「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」
「求めなさい、そうすれば与えられます。」
「信じてバプテスマを受けるものは救われます。」
「自分がしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」など。

そんな有名な言葉が、聖書の何処に書いてあるのか知りたい、また、他の聖書の言葉やモーセの十戒などの意味がわからない、 納得できない、教会に行ってみたいけれど敷居が高い、単純に、緑園の丘に載っている牧師の顔を生で見たい、他のお宅を見てみたいなど、 どのような動機の方も歓迎です。 「牧師聖書宅配便」は、緑園1丁目、緑園6丁目、新橋町、弥生台の桂坂、二俣川の中沢町でももたれています。 場所や曜日、時間など詳細は、教会にお尋ねください。お待ちしております。                  また、ご自宅に牧師を呼んで聖書の話を聞いてみたい方はご連絡ください。よろこんでお伺いします。           緑園1丁目 Y.K.

 


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