「神の顔」といえば、古今東西を問わず、牛とか獅子といった神の使いや神の化身を現すものが数多く描かれています。けれども、実はどうやっても描けな
いのが「神の顔」ではないでしょうか。
聖なる顔
私の好きなジョルジュ・ルオーという人は場末の娼婦とか、サーカスのピエロとか、ちょっと風変わりな人々をいくつも描いています。そのルオーは「キリ
ストの顔」も描きました。私は絵のことはよくわかりませんが、そのピエロとキリストの顔がどこか似ているような気がします。じっと透かして見ていると、
やっぱりピエロの顔とキリストの顔が重なって見えるのです。不思議です。ルオーのキリストの顔は、それまでの多くの宗教画のような、力と栄光にあふれた
姿や、苦しみと絶望をあらわす顔ともちょっと違っているように思います。
ルオーには「聖なる顔」という題の絵があります(私が観たのはメトロポリタンM.でしたが)。「聖なる顔」というすごい題がついているので、いかにも
近づきがたい威厳に満ちた顔なのかと思うと、それが、目をぱっちりと大きくあけていて、私たちをしっかり見つめている、どこかなつかしい顔なのです。
神の顔を写すキリストの顔
考えてみれば、キリストは神の救世主ですから、昔の宗教画に見られるような気品のある美しい顔立ちが似合うと思うのです。けれども、ルオーの描いた顔
は違っています。この夏に長崎五島で見た風変わりなバラモン凧(特徴として絵柄の中にクルスの形がある)にもどこか似ている気がします。
キリストは家畜小屋で生まれました。ローマ帝国による人口調査のため郷里に戻ってきた人々でごった返していた町には、両親が泊まる宿もなかったからで
す。そしてキリストは私たちと同じ庶民(大工)の家庭で育ちました。さらに驚くことに、当時の社会では、いちばんやっかいものとして一線を画していた層
の人々の間や、孤独な人々の間に入ってよく一緒に話し、食事をしていたのです。
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。」(新約聖書マ
タイの福音書9章10節)
それは高貴な人が従者を従えてひととき立ち寄ったというのとは違います。キリストは汗と涙の日々を過ごす私たち人間の間に住んだのです。
預言者の言葉を借りれば、キリストには、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでしたが(旧約聖書イザ
ヤ書53章2節)、人々の間で一緒に過ごし、重荷や悩みを引き受けるために来たのです。
このときのキリストは、ルオーが描いた「聖なる顔」のように、大きな目をあけて、「あなたの悲しみや病を全部知っているよ」と声をかけるのです。ふつう
には「神の顔」は見えないものです。しかし、「キリストの顔」の中には、「神の顔」が写っているのです。「聖なる顔」には慈愛にあふれた「神の顔」が映
し出されているのです。
キリストは今日もあなたのところに来て、あなたの心にある重荷や悲しみを話してごらんなさい、と声をかけておられます。ぜひ、あなたの心でキリスト
を迎えてくださいませんか。
きっと今日から、神にある慰めと喜びが心に満ちてくるはずです。(Ha)
「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(旧約聖書詩篇27:8)