緑園の丘 2005年初夏号 vol.55
緑園の丘 2005年初夏号 vol.55

 新緑が美しい季節になりましたが、みなさま、お変わりありませんか?悲しい事件や事故の知らせが毎日絶えません。そんな中で時折ふっと30余年前に高校の同窓生(当時東大生)が自殺したことを思い出します。それだけにこれからの世界にあっては【死の文化】ではなく【いのちの文化】を育てていけるようにと願います。

 横浜緑園キリスト教会主任牧師 原田憲夫


“魂の叫び”〜ゴッホ「糸杉と星の見える道」から〜

 当時、友人の突然の訃報に衝撃を受けながらも、それが自分であっても不思議ではないと感じていた者は少なくありませんでした。それが真剣に生きることを求めた究極の選択だったと思えたのかもしれません。ただ、牧師になってわかったことは、これまでに死にたいと考えている人が意外に少なくないという事実です。それだけに、とてもむずかしいことですが、「魂の叫び」を聞きとらねばと思うようになりました。

 「糸杉と星の見える道」
 先日、東京国立近代美術館にゴッホ展を観に行きました。そのときは「糸杉と星の見える道」がこんなにも気になるとは思ってもいませんでした。しかし今は、全く門外漢の私の心にこの絵が聖書の言葉と重なり、「魂の叫び」として映っているのです。
 1)二つの光る物:二つの光る物について聖書(創世記)には、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ」、「大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた」とあります。二つの光る物は「永遠の神の世界」を描いているように思えます。
2)大きな糸杉:解説には糸杉は「死の象徴」とありました。ところが、聖書で糸杉は木々の王者であり、威光に満ち、いのちにあふれた存在の象徴です。ソロモン王がエルサレムに神殿を建設したときにはレバノンの糸杉が使われました。二つの光る物を割って揺らぎながら天に昇っていく糸杉は、聖書を知っていたゴッホにとって「死」ではなく「永遠のいのち」だったのではないか、そんな思いにかられます。
3)麦畑と二人の人物と馬車:見事に色づいた麦畑は収穫期、つまり「終末」を物語り、二人の人物と馬車は魂の故郷に向かう「神の旅人」(ヴィアートル)のようです。
4)全体:さらに全体を観ると、二つの光るものは目のようで、糸杉は鼻(鼻→息→魂)のように「人の顔」が浮かび上がってきます。それはまさしく永遠の神を求める「魂の叫び」ではないでしょうか。

 神の自画像
 37才で自殺したゴッホには40枚あまりの「自画像」があるそうです。そういえば、人は神の像(イメージ)に似せてつくられた霊的な存在だと聖書は告げています。私たちはみな神の自画像ということでしょうか。そうですね、一人ひとりがかけがえのない神の自画像、世界でたった一人の大切な存在なのです。ですから、いかに真剣に生きることを求めた究極の選択であったとしても、自分自身(いのち)に対して、また他者(いのち)に対して暴力を振って殺すことは間違っているのです。
 生と死の境界線を超えるか超えないかは紙一重です。私の場合には、思いがけなく出会った一人の青年を通じて救い主を知ったことでその境界線を超えませんでしたが。
もしもむなしい心、生きることの意味を失った魂をしっかり受け止めてくれるお方、共に泣き、抱きかかえてくれる真友に出会わなかったら、今の私はいないと思います。

 「魂の叫び」への答え
 ゴッホ展で観た「開かれた聖書のある静物」が開けていた聖書箇所は、旧約聖書イザヤ書53章でした。それは、人の罪を背負って十字架にかけられて死んだ救い主イエス・キリストを指し示す箇所です。実はそこにゴッホの「魂の叫び」への答えがあったのです。ここにすべての孤独な「魂の叫び」を真正面から受け止め、受け入れてくれる答えが描かれていたのです。
イザヤ書 53:4~6
 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 きょうからあなたもこの救い主であり真友であるイエス・キリストに魂の叫びをぶつけ、その懐に飛び込んでいきませんか。(Ha)

 


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