緑園の丘 2005年秋号 vol.57

“心の扉を開ける声”        〜よくなりたいか〜

朝夕、肌寒さを感じるようになりましたが、みなさまはお変わりありませんか。この夏、私はザンビア共和国(アフリカ)を訪れ、医療、教育、農業の現場に携わっている方々とふれあう機会が与えられました。とりわけエイズといった深刻な社会の現場にふれて重い気持ちにもなりましたが、他方で教会の方々の明るく力強い歌声に励まされました。重荷の多い現代社会ですが、その中でも互いの重荷を負い合える社会をと願わされます。 

 横浜緑園キリスト教会主任牧師 原田憲夫


内側から鍵のかかった扉はなかなか開かない

 学生時代に読んだある短編小説に、レマン湖のほとりに漂着した男の物語がありました。村の人々は、この漂着して来た男に一生懸命話しかけますが通じません。それどころか話しかけるほど男はおびえます。ところが、村の一人がロシア語で話しかけたとたん、反応を示しました。この男は母国の言葉を聞くまでは村の人々の声がただ不安をかきたてる恐怖の音でしかなかったのです。同じように、私たちは絶望した時、恐怖を感じた時、物事をあきらめた時には、自分の内に閉じ籠もり、鍵をかけ、外部との接触を遮断します。一度内側から鍵のかかった扉はなかなか開きません。

【1】心の扉をたたく声

  ある日、イエス・キリストは、エルサレムにあるベテスダと呼ばれる池のまわりに集まっているさまざまな病気の人々に会いました。そして、その中でもおそらく一番重い病の人−この人は38年間病気でした−に目を留めました。そして、この人が長い間病気であることを知って尋ねました。「あなたはよくなりたいか」。  「よくなりたいか」とのキリストの問いかけは不思議です。長年、病の中にあったこの人にとっては当り前ではなかったのでしょうか。ところがそれは当たり前のことではなかったのです。38年間といえば、この人にとってほとんど人生のすべてだったかもしれません。この過ぎ去った長い歳月は、家族や友人にあきらめの気持ちをもたらしました。いやそれ以上に、この人自身がまったく希望をなくし、せいぜいその日の物乞いが関の山で、すでに死の臭いを醸し出していたのです。 そこに突然、不思議なまなざしで自分をじっと見つめ、「よくなりたいか」と、心の扉をたたく声が響いてきたのです。その声には、愛といのちと力があふれていました。この声は、生きることに無気力で、無感動で、希望をなくしていたこの人の心を激しくゆさぶりました。 

【2】心の扉を開ける声
  現代は瞬時にして世界のどこにいる人とでも話しをすることができる時代です。遠い場所への移動も簡単になりました。ところが同時に、深い孤独が背中合わせにある世界です。隣人が世界の反対側にいる人よりも遠くに感じられることは決して稀ではありません。自分は誰からも忘れられている、愛されていない、と感じている人は決して少なくありません。自分の意思で支えられるうちはまだがんばれますが、最後の一糸が切れた時、そこには絶望しかありません。  ところがキリストは、みなの予想に反して、だれも心に留めなくなり、みなから忘れられていったこの男の人に目を注ぎ、声をかけられました。「あなたはよくなりたいか」と。そしてまったく希望をなくしていたこの男の人に威厳を持って命じました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と。この人の心の中にキリストの言葉が届いた瞬間、驚くことが起こりました。「その人はすぐに直って、床を取り上げて歩きだした」のです。キリストの声は、無気力で、無感動で、希望をなくしていたこの人の心の扉を開き、ついに立ち上がらせたのです。  必ずしも物の豊かさは心の豊かさとはなりません。豊かさの中で渇いている人がいます。反対に貧しさの中で満たされている人がいます。傍目には幸せそうに見えながら、孤独と苦悩の日々を送り、未来への希望をなくし、死を考えている人はますます増えています。そしてその孤独をいやそうと、あるいは苦悩から逃れようと安易な慰めを求めて、ますます深い奈落の底に沈んでいきます。  けれども、キリストは、あなたの心にある重荷、苦悩、たましいの渇きに目を注ぎ、「あなたはよくなりたいか」と心の扉をたたき、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と心の扉を開けて心の中に命の泉をつくりだしてくださるのです。 あなたも今日、このキリストの心の中に、ありのままでゆだねることができますように!

  キリストは今日もあなたのところに来て、あなたの心にある重荷や悲しみを話してごらんなさい、と声をかけておられます。ぜひ、あなたの心でキリスト を迎えてくださいませんか。きっと今日から、神にある慰めと喜びが心に満ちてくるはずです。(Ha)

 「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(旧約聖書詩篇27:8)


〜ドイツへ行ってきました〜             原田惟座耶
  

 私はこの夏、初めてドイツへ行った。南ドイツに一週間、北ドイツに二週間ほど。 そのドイツの滞在で何が印象に残ったか。まず、真っ先に思い浮かぶのは「じゃがいも」である。私は基本的にじゃがいもは好きだ。私にとってのじゃがいものイメージは「肉ジャガ」「ポテトサラダ」「ステーキの横にあるじゃがいも」など。であるから、じゃがいもは他の食材を引き立たせる存在であり、慎み深かった。けれど、私はドイツで大胆なじゃがいもに出会った。ある夕ご飯、皿の上にじゃがいもが誇らしげに乗っかっていた。他のおかずがくるのかと思って待っていたが、他はこなかった。じゃがいものみだった。複雑な表情をしていた私に一人のドイツ人が「おまえは、じゃがいもが好きか。」と聞く。基本的に私はじゃがいもが好きだったので「好きだ。」と答えた。どうやらそのドイツ人は「こいつは無理に好きだと言っている。」と思ったのだろう。「日本人は好きなものを嫌いと言う。嫌いなものを好きと言う。」と言われ、基本的に好きだということを説明するのに一苦労した。(英語があまりしゃべれない私はノートに絵までかいて説明した。)                                だが、実は私がドイツに行った一番の目的はじゃがいものことではなく、北ドイツのキリスト教人口が少ない地域で、イエス・キリストを伝えるためだった。 400人ほどのクリスチャンの若者が集まり、十数人のグループで町々に行く。私は Ludwigslustに行くチームのメンバーの一人だった。私たちのチームは、ある高校のクラスを担当する時間が与えられたのでディスカッションをした。 テーマは「生きる目的とは」。様々な意見がでたが、その中で最も多い答えは「自分の夢を追いかける。」「幸せな家庭」それ以外には「愛」「ドラッグ」などという答えもあった。「生きる目的とは」と聞かれ、多くの生徒は、「よくわからない、まぁとりあえず幸せな家庭かな。」という雰囲気で答えていた。多くの人が、よくわからないが、とりあえず、そのような目的ということにしよう。そうでなければ前に進むことはで きないから。と、言っているように思えてならなかった。   日本にいた時、クリスチャンということが何か恥ずかしいと思わせるような空気を感じることがあった。けれども、今、改めて思う。自分の生きる目的を知り、そのために生きることができる、それは大きな喜びだ。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(聖書より)       

 

 

 

 

 


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